東京大学史料編纂所

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正倉院文書調査

 昭和六十年度の正倉院文書調査は、十月二十一日より二十六日までの六日間、例年の如く正倉院事務所(奈良市雑司町)に出張し、同修理室に於て原本調査を行なった。本年度は、昭和五十五年度より集中的に行なっている『正倉院文書目録』作成のための作業を行ない、正集五・六・十六・十九、続修五・三十八〜五十の計十八巻分の目録原稿と原本との対校を行なった。『正倉院文書目録』一(正集)は昭和六十一年度出版の予定である。
○「天平二年安房国義倉帳」の継目裏書
 以下では、近年の調査の一端を紹介する意味を込めて、本年度に新たに確認した「天平二年安房国義倉帳」の継目裏書について報告したい。なお、接続・表裏関係等を中心として正集に関する既調査の事柄は、昭和六十一年度に『正倉院文書目録』一として出版予定であり、以下のことも同巻に収録する内容であるが、比較的重要な意味を持つと思われるので、ここに重ねて報告する次第である。
 「天平二年安房国義倉帳」(『大日本古文書』一—四二四頁、以下「古一—四二四」と略記)は、現在正集第十九巻第八断簡の表面(以下「正19�表」の要領で略記)となっており、(オモテ)十一行分が現存する。その裏—正19�裏—は「常疏料紙納帳」(古三—一五三〜一五四)として二次使用されており、天平二十年二月十三日より六月十六日までの記載がある。現状で本断簡は「義倉帳」面の第八・九行目の間で二紙に分れているが、両紙は正集成巻時のものと思われる復原によってツキ合ワセで接続している。界線の連続等、「義倉帳」面でこの接続に不都合な点はない。さらに、裏の「料紙納帳」面では、初行にある「丈部曽祢万呂」の文字がちょうど両紙の切目にまたがって左右接合しているから、両紙は表裏共に接続すると判断でき、二次使用の時点でも一紙の状態であったことが確かめられる。もともと一紙であった本断簡が一旦二紙に切断されたのち、再び修復されたのは、正集成巻作業中のことと推測できよう。
 さて、「義倉帳」の継目裏書は、正19�裏の左端に文字の右半を残している。その左端上部はむしり取られた如くに破損しているため、現状ではその下部にほぼ六字分の存在が認められるに過ぎない。正倉院文書のマイクロフィルムないし写真焼付帳では、白紙に隠されて正19�裏の側からこの文字は見えないが、正19�表の側に逆文字で写っているのが確認できよう。また、正倉院文書の写本の中にこの文字を示したものがいくつかある(なお、古一—四二三の按文に見える『模写東大寺文書』については、皆川完一「正倉院文書の整理とその写本」〔『続日本古代史論集』中〕五六二頁以下参照)。『寧楽遺文』は継目裏書を「安房国義倉帳」とするが、そのように読むことは困難と思われ、それが何に拠ったものか不明である。原本を検ずるに、この六字は「□□〔平二〕□□税帳」と読むことができた。とくに「税帳」の二字は旁(ツクリ)の特徴的な形が明瞭である。
 ところで、破損した継目裏書上部の所在について写真帳によれば、『大日本古文書』はその文字を収めていないけれども、続々28—13�表(古十一—二三六〜二四一、裏は空)の右端上部に「安房国天」の文字が見えるのである(渡辺晃宏氏の御教示)。そこで今回の調査中に、両断簡の関係を調べてみた。
 続々28—13�は五紙からなる断簡で、右端の第一紙は第二紙の右端上部に剥がし残された細長い紙片である。その紙片の左端はきれいに截断されたもののようであるが、右端は破り取られた如く不整形の状態になっている。つまり、かつて第二紙の右側に貼り継がれていた紙の一部が、その紙継目を剥がし取った際にうまく剥がし取れずに破れ、継目に貼り付いたまま残ったのがこの紙片であろう。この紙片の左端に「安房国天」の文字の右半が存しているのである。そして、原本同士をつき合わせてみると、この紙片と正19�裏左端上部の欠損箇所とはうまく接合し、この紙片の右端にある墨痕が正19�裏最末行にある「廿一」の文字と合致する。こうして、かつてこの紙片が現在正19�となっている断簡の一部であったこと、すなわち「安房国天」の文字こそ「義倉帳」継目裏書の上部欠損文字そのものであること、また正19�裏と続々28—13�表とが「常疏料紙納帳」としてこの順に接続していたこと、が確かめられた。結局、正19�として現存する「安房国義倉帳」の断簡は、その右側の紙継目を剥がし取られた上で裏返され、「常疏料紙納紙」として二次使用されて、その際うしろに続々28—13�として現存する断簡が貼り継がれていたが、正集成巻時にその継目から再び剥がし取られたのである。二度にわたる剥がし取りのせいか、この時に継目裏書のある方の紙端上部が破れてしまったのであろう。
 「天平二年安房国義倉帳」の継目裏書をめぐる今回の調査で判明したことは以上の通りである。ここに、その継目裏書をほぼ復原でき、また続々28—13�表が「常疏料紙納帳」と判明したことによって、五月一日経書写の最末期の状況を伝える一史料を追加できた。継目裏書の判読になお定め難い点はあるが、上部・下部対応させて「安房国天平二□□税帳」と見てよいであろう。また、字配りから判断してこれ以外に文字はない如くである。この点を踏まえていえば、いわゆる「天平二年安房国義倉帳」の天平二年という年時はほぼ確かめられたわけであるが、一方で、その帳簿としての名称や性格といった点に今後再検討さるべき必要の生じたことを指摘しておきたい。
 最後に、原本調査や目録作成作業に当たっては、正倉院文書研究者諸賢の論考や口頭での様々な御教示を大きな手掛りとし、その精度向上に活用させていただいていることを、この機会に付言しておきたい。
        (皆川完一・岡田隆夫・石上英一・石井正敏・加藤友康・山口英男)


『東京大学史料編纂所報』第21号p.81